どうも。
ワーキングホリデーでオーストラリアの図書館で君の膵臓を食べたいの原作を読んでいた野川太郎です。
今日はその映画版の考察・原作との違いについて語っていきます。
この映画を一言で例えるなら
陰キャ・ボッチな主人公が病気持ちの陽キャのヒロインとの夢の交流ができた、視聴者(特に陰キャボッチの男たち)にとって、泣いて喜ぶくらい、うらやましい映画
となっています(笑)
軽くこの映画を説明するなら、高校教師になった主人公が図書室で昔交流のあったヒロインとの回想をしていく物語。
現在編と過去編が入り混じった映画構成であり、どちらかと言えば過去編に重点を置いています。
では、ここから映画考察へ入っていきます。
主人公とヒロインの奇妙な関係が実に面白い
主人公が病院で偶然ヒロインの日記を読んでしまい、ヒロインが余命短いをことを知ります。
それがきっかけで主人公はヒロインと親交を深めていきます。
ここまでなら、王道的な感じがしないわけではないです。しかし、面白いのはここからです。
ヒロインは主人公を【仲良し】というカテゴリーとして親交を深めようとするのが面白いのです。
普通、仲良しと聞くと【友達】【親友】などのワードが浮かぶはずです。
しかし、ヒロインにとって【仲良し】はそのカテゴリーではないのです。
主人公を友人、親友、恋人ではなく、【仲良し】という新たな概念で付き合っていく描写が面白い。
私はここに新しい発想を発見したと思いました。
恋人が病気で死んでしまうという王道から完全に反れたストーリー展開
ではなぜ、主人公が【仲良し】というカテゴリーに入ることができたのか?
それは、主人公が真性ボッチだったからです。
この主人公は真性のボッチ。つまり、本人が望んで常に一人でいること。
そこらへんにいる陰キャボッチと一線を画すところがそこにあります。
好きでボッチでいる主人公。
ヒロインにとって主人公は自身の病気を知る数少ない一人。
同時にそのことを他人には絶対に口外しない。なぜならボッチだから。
同時に、主人公は基本的に他人に興味・関心がない。
ゆえに、ヒロインに対し、基本的に同情はしない
ヒロインは同情されることを嫌い、病気でも普通の日常を送りたいと願っています。
つまり、ヒロインにとって主人公はとても都合がいいのです。
友人や恋人では、自身を絶対に憐れんで普通の日常は絶対に遅れない。
けれど、主人公ならそれができる。
【仲良し】という新たなカテゴリーに入れた理由がそれです。
この歪な関係に対し、共感できるかどうかで視聴者の評価が変わるのではないでしょうか?
【仲良し】とはヒロインの病気を一切気にせず、普通に接してくれる人のことだと私は考察します。
ヒロインのわがままに対し、評価が分かれる
ヒロインの提案により、スイーツバイキングや焼き肉そして、一泊二日の旅行に出かけることになります。
ボッチを極めた主人公にとって、彼女のリア充的行動に翻弄されていきます。
私の考察では、この描写もまた面白いと思います。
ボッチの主人公にとって、このような生活は初体験であり、この出来事は主人公をちょっとずつ成長させていきます。
一方のヒロインにとっては、自分の病気を全く気にしない、けれど恋人気取りもしない主人公との普通の日常を無事に送ることができています。
基本的にインドアの主人公とアウトドアのヒロイン。
双方に実はメリットのある出来事であると私は考察しています。
【仲良し】というカテゴリーで付き合う二人の描写は奇妙で面白いと私は考察します。
けれど、ヒロインのわがまま的な行動に対し、鼻に着く視聴者もいるはずです。
ヒロイン役の女優さんのルックスと演技力が圧倒的だからこそ、逆に鼻につくかもしれません。
テンポの良さが評価ポイント
この作品も基本的にはお涙頂戴系映画です。
私は本来このタイプの映画があまり好きではありません。
ですが、この映画はそこらに転がっているお涙系の映画とは一線を画していると考察します。
それが、テンポの良さです。
私が学生の頃、「世界の中心で愛を叫ぶ」という映画が話題になりました。
私はしばらくしてからこの映画を視聴しましたが、とてもつまらなかったです。
※いつか考察します(たぶん)
理由は単純で、とにかくテンポが悪いから
話が進まない、ダラダラした映画を私は好みません。
また、そのような作品は中身が薄い、つまりネタが足りないため、ワンシーンがとても長くなると私は考察しています。
けれど、君の膵臓を食べたいという映画は話のテンポがとてもいいのです。
主人公がヒロインの秘密を知り、ヒロインに翻弄されるように色々な場所へ出向き、
ヒロインの人間関係に巻き込まれたりと、話の内容がとにかく詰まっています。
私がこの映画を評価するポイントの一つではあります。
お涙系映画には2種類のタイプがあること
①ヒロインの死が先に確定しており、主人公や視聴者がすでに把握しているタイプ
②ヒロインの死が後半になって判明するタイプ
私が見た映画はどちらかと言えば②のタイプが大半でした。
②タイプは後半の落ちとしてヒロインの死を持ってくれるため、視聴者を不意に驚かせ、感情的にできる演出であると考えています。
逆に言えば、ヒロインが死んでしまうことだけに焦点を当てる演出に集中するだけとも言えます。
君の膵臓を食べたいという映画は①タイプであり、むしろ作りにくいタイプの映画だと思います。
落ちにヒロインの死を持ってくることができないからです。別の落ちを用意する必要があります。
だから、この映画はその別の落ちを用意し、それが成功したのだと私は考えています。
ヒロインの人間関係に巻き込まれるボッチ主人公
ヒロインは学校では人気ものであり、リア充です。
そんなヒロインが主人公とつるんでいることが学校中で知れ渡ります。
当然、日陰のボッチ主人公はクラスの注目の的です。
私はこのシーンが意外と好きです。
なぜなら、とてつもなくおいしい展開だからです。
真性ボッチの主人公にとってヒロインは【仲良し】と言うカテゴリー。恋人ではありません。
【仲良し】という新ジャンルの付き合い方に対し、周りが勝手に誤解して嫉妬してしまう。
主人公とヒロインにしか理解できない、秘密を共有した関係。
このおいしすぎる主人公のポジションは、私にとって一種の【中二病的な喜び】を感じざるを得ません(意味不明?)
俺たち実は付き合っているんだ、では面白くもおいしくもないということです。
二人は【仲良し】というカテゴリ―でしかも、秘密を共有している。周りはそれを理解できない。
この【特別感】が中二病の私にはたまらなく好きなのです(病院行き確定)
この映画は本当に新しいことをしてくれる映画であると私は思います。
お涙頂戴系映画にしては本当に画期的な演出です。
ヒロインの誘惑に耐えるボッチ主人公
ヒロインは死ぬまでにやりたいことをリスト化していました。
その中には恋人ではない人と「いけないこと」をすることが明記されていました。
ヒロインは自身の部屋に主人公を呼び、誘惑します。
けれど、主人公はそれに対し、拒絶・怒りを覚えました。
私も一人の男ですが、女性のお誘いを拒んだ主人公に共感しました。
それは、なぜかと言えば、主人公があくまでヒロインとは【仲良し】であることを証明したからです。
普通のお涙頂戴映画なら、一線を越えるでしょう。
ですが、この映画はそこが良い意味でひねくれている。
主人公はヒロインとは恋人ではありません。【仲良し】なのです。
その関係を壊そうとするヒロインの行動に怒りを覚えることは当然です。
女性の誘惑に耐えた俺かっけー、ではないところが共感が持てるポイントです。
死が決まっている距離の縮まった女性に対し、【仲良し】を貫こうとする主人公は本当の意味でかっこいいのではないでしょうか?
けれど、ボッチだからこそこういう展開を本当に望んでいないという考察も考えられます。
ここは男性陣の中で意見が分かれるところです。
ヒロインの親友とガム好きの同級生
ヒロインの親友が主人公に絡んでくる演出がまたいい。
主人公とヒロインの【仲良し】関係が全く理解できないヒロインの親友。
この対比関係が妙に印象深く、これが後の伏線であることを私は予想していませんでした。
また、主人公に妙に付きまとうガムをかむ少年もまたいい。
主人公の親友ではないけれど、どこか主人公と似たもう一人のボッチキャラが個人的に気に入っています。
この二人のキャラクターに主人公が出会えたのもすべてヒロインのおかげです。
ですが、主人公は迷惑千万と言う感じ。このベタな演出もまた良い。
ヒロインの死の演出が予想外に裏切られたことが高評価
この映画のゴール地点はヒロインの死です。
実際、ヒロインは病院での入院を余儀なくされました。
ああ、この病院で死ぬんだな~
私は最初そう思いました。
けれど、その展開は予想外に裏切られたのです。
この時には、主人公との距離がより近くなり、限りなく恋人に近い状況になってきました。
【仲良し】でいることは徹底していましたが、恋人や親友レベルの親交を深めていました。
その状況で、ヒロインは病院から外出許可が下ります。
これが最後であることは視聴者にも分かっています。
けれど、ヒロインが最終的に死を迎えた要因が病気ではなく、殺人事件に巻き込まれるという演出だったのです。
私は映画館で驚かされました。
この映画はどこまで俺の予想を常に上回っていくんだと!
この殺人犯が現れるという伏線自体は事前にあったことをその時思い出しました。
実に巧妙な演出だと言えます。
このツイストの利いた演出の効果は以下の通りです。
①主人公はヒロインが病気で死を迎える前に殺人事件に遭ったことを知る。
②それ以外の関係者はヒロインは殺人事件で死んだ。
これは似て非なる状況です。
②のキャラクターたちはヒロインが殺されたことを悲しみます。
①である主人公は、死が迫ったヒロインが悔いの残らないように生きようとした時に殺されたこと。
それを悲しみます。
この対照的な描写が非常に面白く、本当にひねくれていて画面に夢中になりました。
お涙頂戴系映画では絶対にない演出です。
ヒロインの死から前に進むことができない主人公
【仲良し】であったヒロインを予想外の形で失った主人公。
主人公はヒロインとの【仲良し】というカテゴリーを守り続けました。
それは同時に、彼の時を止める結果になったと言えます。
彼はボッチのまま彼女の真実を周りに話すことも無く、教師を続けていました。
そのセンチメンタルやノスタルジック感がまたたまらなく、私は結構好きです。
主人公はヒロインとの【仲良し】に呪縛を受けている状態からどのように開放されるのか?
ただ、ヒロインが死んで悲しいね、で終わらないのがこの作品の良い所です。
ヒロインからの過去のメッセージ
ここからの展開は少しベタな感じがする人もいたと思いますが、私個人的にはありだと思っています。
主人公は学校の図書館でヒロインからのメッセージを発見します。
元々、主人公とヒロインは同じ図書委員として活動していました。
そのメッセージ等の細かい詳細は省き、端的にだけ説明します。
そのメッセージは最終的にヒロインの親友の女性に渡り、主人公とヒロインの関係をその親友はようやく理解することになります。
そして、主人公はヒロインの親友に対し、「友達になりませんか?」と言う。
これこそが、主人公の真のゴールだったのだと私は理解しました。
主人公はボッチキャラで終わる。これも一つの結末ですが、それではヒロインの存在意義がありません。
ヒロインの日記やそのメッセージには主人公に対するヒロインの思いが載っていました。
ボッチでい続けることはとても勇気がいること。主人公はその勇気を他の人にも分けるべきであると。
そして、同時に友人を作ってほしい。それがヒロインの願い。
ここがこの映画の落としどこになります。
この映画はある種、プラトニックの究極系を見せつけられる映画と言えます。
たいていの作品なら、別のパートナーや恋人を見つけるパターンです。
色恋ネタで終わってしまうことがほとんど。
けれど、ヒロインが望んだことは友人だったこと。そして、その相手は自身の親友であること。
そこに色恋はまったくありません。
主人公は仲が悪かったヒロインと友人のなる道を選ぶことになりました。
※ちなみにヒロインの結婚相手があのガム少年だったのも中々のベタ
この物語は主人公がボッチから卒業することが着地点となったのです。
なぜ、ヒロインは主人公と親友を友達にさせたがったのか?
ヒロインは主人公に対し、一種の尊敬の念を抱いていました。
いつも一人で戦っている。それは逃げではなく勇気だ。
それがヒロインの考え方でした。
逆にヒロインはボッチが苦手のキャラクターでもありましたが、人を見る目は確かです。
一方のヒロインの親友は人を見る目がまったくないと言われています。
ヒロインは自身が死んだ後、親友を助けることができる(勇気を分け与えることができる)のは主人公しかいないと思ったのではないでしょうか?
または、主人公がボッチでいることがとてももったいない人材であるとも考えたのかもしれません。
ヒロインが一番心に残っている相手は他でもない主人公でした。次に親友。
二人が親交を深めることがヒロインにとって一番の喜びだったのかもしれません。
君の膵臓を食べたいとはいったい何を意味しているのか?
とある国で、人の臓器を食べるという習慣が作品内で説明されています。
その習慣は人食(カニバリズム)を意味しているわけではありません。
その人の魂が食べた人の中に残り続けるという意味です。
また、臓器を食べると病気が無くなるという言い伝えも言及されていたと思います。
ヒロインは膵臓の病気で死にます。
ヒロインは主人公の膵臓を食べたいと言っています。
それはヒロインの中で主人公がい続けることを意味し、主人公が永遠に【仲良し】でいてくれることを意味していたのかもしれません。
または、自分の病気を【仲良し】の主人公の臓器を食することで回復する生存願望の現れだったのかもしれません。
ここの考察に関しては正直難しいのが本音であり、同時に結論を出したくないと私は思っています。
原作との大きな相違点
今作は原作とは大きく異なる演出がなされています。
実は過去編と現在編と命名したシーンですが、原作には現在編はありません。
つまり、大人編はないのです。
これは完全に映画の集客を狙った演出です。
主人公とヒロインだけでは映画の集客を見込めないと判断した結果だと思います。
有名俳優陣を起用することで、集客が望め、また新たな演出が加えることができました。
ですが、大人編と過去編には妙な違和感があったことは否定しません。
どこか世界線が違いすぎるというか。
私は小説はこの時未読だったのですが、ずっと引っかかっていました。
オーストラリアのワーキングホリデーでゴールドコーストの図書館で偶然原作本を見つけることができました。
そして、その時の違和感がようやく解消することができました。
小説版の結末は、主人公がヒロインの親友にすべてを告白し、最終的には友人関係になり終わりを迎えます。
映画版のように過去を引きずった大人にはなりません。
ちゃんと高校生で決着をつけます。
どちらの演出が良かったかは個人の判断にゆだねることにします。
私の考察では、小説版の終わり方の方が自然で違和感がまるでありません。
ですが、それを映画版にしたとき、少し弱い結末になると思いました。
しかし、映画版の展開はベタが過ぎる気もします。
映画に100点はありません。皆さんが視聴して判断することだと思います。
考察のまとめ
まず、ヒロイン役の演技力が凄まじいことが挙げられます。
私がこの映画を見た時、この子は絶対売れると確信しました。
他の有名俳優陣を全員食っていました。
映画館を後にしたとき、別の映画のポスターを見たのですが(映画名は伏せます)若手の役者たちの写真等がとても安っぽく感じました。
それだけ、このヒロイン役の俳優の演技力が圧倒的だったことを実感しました。
また、上記の内容以外にも語っていないこと映画の内容が多数あります。
だからこそぜひ一度、この映画を視聴することを強くお勧めします。
今日は以上です。
ご視聴ありがとうございました。
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